イージー・ライダーの説明・紹介
Published on November 18, 2012 By jjdmxld2 In History

こういう没実践的[#「没実践的」に傍点]・個人主義的[#「個人主義的」に傍点]・な哲学を刺激している最後の背景は、無論、その特色ある著しい宗教的意識[#「宗教的意識」に傍点]である。西田哲学に於て、それ自身には理論的に至極透明である処の神秘主義[#「神秘主義」に傍点]は、恰もこの意識を、すでに前に云った諸条件の下に哲学的に直接に翻案したものに相当するだろう。人々は知っている、行とか愛とかを振り回わす宗教的意識が一般に、事実上如何に非実践的で個人主義的であり得るかを、又結果に於て如何に逃避的で利己的でもあり得るかを。
 だが今迄云った一切のことにも拘らず、西田哲学自身にとってはこの哲学は少しも観念論ではないのである。観念論は事物をノエマの側に於て見る場合の一例である。夫は事物をイデア[#「イデア」に傍点]の観念的展開として把握して了う(ヘーゲル)。だがそうかと云って、無論西田哲学は唯物論でもない、唯物論も亦事物をノエマの側に於て見ることしか知らない、その点では観念論と同じである。ただイデアの代りに物質[#「物質」に傍点]が、ノエマ的有として、事物の根柢に横たえられるに外ならない(マルクス)。とそう云うのである。観念論をも唯物論をも止揚した西田哲学は之に反して事物の根柢をノエシス[#「ノエシス」に傍点]の側に於て見出そうとする。西田哲学は観念論でも唯物論でもない、夫は高度の現象学であった。だからこそそれが最も洗練された観念論である。


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